バックナンバーをご覧になりたい方は、画面右上「カテゴリー」欄の「物語」をクリックしていただければ、読むことが出来ます。

清く図太くしたたかに!

3日で読めるトップが強運であり続けるための『人間学読本』

ヨーロッパ英雄史小説作家・小園崇文です。

「デキるリーダーは歴史に学ぶ!ヨーロッパ史を図太くしぶとく生き抜いた強運な王たちの物語」

さてそんなフリードリヒ3世、少しは反省して改心したかと思いきや…、いやいやそんな玉ではありません。それどころか、所領を取り返そうという気概も見せず、ローマに行く始末。

しかし考えようによっては、この時追放されたのは結果論から言えば良かったのかも。ハンガリーは貴族同士のもめごとに加えてオスマン・トルコ帝国の脅威にさらされている。ボヘミアは「フス戦争」という宗教内乱の真っただ中。どちらも「無能な」フリードリヒ3世の手に負える問題ではありません。

余計なエネルギーを消耗せずに済んだ、と考えれば、やはりこの人は相当な「強運の持ち主」。人生勝つだけが能ではない。とは言いつつも、それは後付けの話。当時の人々にとってはこの君主、ただただ「どうしようもない最低に人間」にしか映りませんでした。

で、政務をほったらかしてローマで放蕩三昧、という訳ではなく、そこはさすがにそれなりの理由が。

1452年、「他に都合の良い人物がいない」し、「無能で扱いやすいから」という理由で皇帝になったフリードリヒ3世は、その戴冠式を行うためにローマへと向かいます。しかし金がないからと、そのローマへの路銀はローマ教皇に出される図太さを発揮。

1453年、東から勢力を伸ばしてきたオスマン・トルコ帝国が、コンスタンティノープル(現イスタンブール)を陥落させて東ローマ帝国を滅亡させる、という事態。

この全ヨーロッパを震撼させる大事件に、さすがの「大愚図皇帝」フリードリヒ3世も「打倒オスマン・トルコ」の気持ちが燃え上がって来て…、などということは期待するだけ無駄(苦笑)。終始一貫、「われ関せず」。

一方、オスマン・トルコ帝国との最善背に位置するハンガリーの貴族たちの危機感は、生半可なものではなく、国民的英雄フニャディ・ヤーノシュが陣頭指揮。ヤーノシュが戦死した後は、その息子マティアスが後を継いでフリードリヒ3世に共闘をもちかけます。

フリードリヒ3世、「渋々ながら」応じるも、全くやる気なし。そんな皇帝に業を煮やしたマティアスは、「こんな奴とやってられるか!」とばかりに、皇帝を追放。まともに戦っては全く歯が立たないフリードリヒ3世、すごすごとハンガリーから脱げる羽目に。

そんな情けないフリードリヒ3世ですが、持って生まれた「悪運の強さ」はまだ捨てたもんじゃない。1457年、後見人を務めていたラディスラスが、若干17歳の若さで死去。将来を嘱望された若者でしたが、病には勝てなかった。フリードリヒ3世の周り、どういう訳か有能な人ほど若くして惜しまれながら死んでいきます。

さてハンガリーは失ったものの、ひとまずオーストリアという安住の地を「棚からぼた餅」で得たフリードリヒ3世彼の人生の中で比較的平穏なこの時期に、妻エレオノーレとの間に5人の子供が生まれます。そのうち3人は5歳にも満たないうちに死亡してしまいますが、長男マクシミリアンと長女クニグンデだけは成人。

特に長男のマクシミリアンはまさに「トンビが鷹を生む」。「なぜこの親からこの子が?」と思われるぐらいに優秀で、後に「マクシミリアン1世」として名君誉れ高き人物になりますが、それはもっと後年の話です。

しかし、そんな平穏な生活もつかの間。フリードリヒ3世、やる気がないから当然、オーストリアの貴族にも市民にも人気がない。対して3歳違いの弟アルブレヒト。こちらは兄とは打って変わってヤル気満々の凄腕。人気も高い。「こんなヘボ兄貴ならオレの方が…」という野心が起こっても不思議ではない。そして案の定、アルブレヒトは貴族と市民を煽って暴動を起こさせ、兄フリードリヒ3世を追い出しに。

ボヘミア王の助けで何とか命からがら逃げだすも、オーストリアとウィーンは弟アルブレヒトに奪われるという、何とも情けない事態。

こんなふうに、何一つ誉めようのないフリードリヒ3世ですが、そんな彼の人生にまたもや「強運」な出来事が起こります。その出来事とは…?この続きは次回のお楽しみ!ということで。

また1週間後に、この続きを配信いたします。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!