バックナンバーをご覧になりたい方は、画面右上「カテゴリー」欄の「物語」をクリックしていただければ、読むことが出来ます。」

●一人、また一人…

「クトラの戦い」で勝利を収めながらも、アンリとユグノー陣営にとっては、相変わらず苦戦の日々が続きます。地方の局地戦でいくら勝利を収めても、結局フランスを治めるためには、やはりパリを抑えなければダメ。この時代で既にヨーロッパでも有数の大都市であるパリを押さえないことには、いつまで経っても「国を持たない王」「帰り着く港のない船」。

その肝心要のパリは、未だにカトリック勢力の牙城。しかしそのカトリック勢力も、国王派・カトリック同盟・穏健派と数派に分かれて意見を対立させ、必ずしも一枚岩ではないのが複雑な所。その中で最もパリ市民の支持を得ているのが、最強硬派である「カトリック同盟」。首領はもちろんギーズ公アンリ。いつの世も一般受けするのは、主張が分かりやすく勇ましくてやることも派手な連中。一種の「ポピュリズム」のようなもの。何とか妥協を図ろうとする国王アンリ3世や、「取り敢えずユグノー(新教)も認めればいいじゃないか」という穏健派は、言ってることは正しくても、こういう乱世においてはどうしても弱腰に見えてしまう感は否めない。そんな自らの人気に加えて、スペイン王フェリペ2世やローマ教皇庁などの後ろ盾もあって「飛ぶ鳥を落とす勢い」のギーズ公アンリ。もはや国王を国王とも思わない不遜な振る舞いが目立ち始め、それに対して国王アンリ3世は内心忸怩たる思いを抱きながらも、表向きは国王としての威厳を損なわない振る舞いを示します。

ギーズ公アンリ

そんな微妙な駆け引きが続くカトリック陣営に1588年5月、決定的な亀裂を起こす事件が。その直前の戦闘でユグノー陣営に勝利を収め、意気揚々とパリ凱旋を目論むギーズ公アンリとそれを熱狂的に支持するパリ市民。「今度こそ国王の座を乗っ取られるのでは?」と不安になったアンリ3世は、ギーズ公アンリのパリ入城を禁止するも、ギーズ公アンリはそんなことお構いなしにパリ入城。そして市民の大歓声。アンリ3世はこれに対して自分の衛兵を突入させるも、逆にパリ市民が蜂起して王の衛兵を壊滅させるという、何とも情けない結末に。歴史上「バリケードの日」と呼ばれるこの事件でパリ市民の支持を完全に失ってしまったアンリ3世は、夜逃げ同然の這う這うの体でパリから逃亡。今やギーズ公アンリが実質上「パリの王」に君臨。

正統なフランス国王であるにも関わらず、各地を転々とする放浪生活を強いられる羽目になったアンリ3世は、いよいよもってギーズ公アンリに対する恨み骨髄、憎しみ百倍。放浪生活の途上のブロワという都市で「全国三部会」という会議を招集し、そこで何とかギーズ公アンリを追い落とそうとするも、逆に王権の制限・異端者の王位継承権はく奪・ギーズ公アンリを王国総代官に任命・アンリの伯父であるブルボン卿シャルルを王系継承者(もちろん操り人形)に認めさせられるなど、「泣きっ面に蜂」ような結末に…。

「かくなる上は…」と覚悟を決めたか1588年12月、アンリ3世は全国三部会が開催されているブロワ城にギーズ公アンリに招請。「危ないから止めておきましょう」という周囲の制止を振り切って参上したギーズ公アンリ。国王の居室にやって来て、まさに国王の元に歩を進め始めたその刹那に…。国王の腹心がお腹をグサッと一刺し。天下を掴みかけていたギーズ公アンリ、その手前で何ともあっけない幕切れ。「和解を名目に」という見え透いた口上に、何でまたのこのこと出てきたのか?気弱な国王アンリ3世を舐めていた、としか思えない。パリ市民にさえ見放された国王に一体何が出来るんだ?と、タカをくくっていたとしか思えない。油断と傲慢さが招いた悲劇。「自分は勇敢」「自分は何でもデキる!」と思い込んでいる人ほど無茶する。そして自滅する。その典型であったギーズ公アンリの最期。これで「三人のアンリ」のうちの一人が歴史の舞台から降ります。

アンリ3世

一方、まさしく「窮鼠猫を噛む」のような、半ばやけっぱちで捨て身の行動によって、ギーズ公アンリを葬り去ったアンリ3世。だからと言ってこの後のフランスをどう治めていくか?というデザインが、この国王の頭の中にある訳ではありません。おまけにこの直後に、何だかんだと頼りにしていた母にして王太后カトリーヌ・ド・メディシスが69歳で死去。異国イタリアはフィレンツェのメディチ家から嫁いで、「商人の娘」と詰られながらも宮廷をしぶとく生き抜き、10人の子を生した時は「ヴァロワ朝は安泰」と思われたが、その息子たちが次から次へと無能で後継ぎを遺せず、しかも自分よりも若くして死んでいく。「商人の娘」が異国の「最高実力者」に上り詰めたが、最後に見るものは断絶必至の王家と、混乱の極みにあるフランス。「もう少し早く死んでおけば良かった…」ぐらいのことは胸に去来したのでしょうか。

そして強力な後ろ盾を失ったアンリ3世。跡継ぎを遺す当てもない。断絶必至のヴァロワ朝。こうなったら組む相手は、もう実質的に王位継承の筆頭であるアンリしかいない。この二人、もともとは王宮で共に学んだ同窓生。信仰の違いはあれど仲は良好。アンリ3世としては祖国フランスの安定を託せるのは、もはやアンリしかいない。という訳で1589年4月3日、残った「二人のアンリ」が再会。ここで二人はギーズ公アンリの死後も頑強に抵抗を続ける「カトリック同盟」に一致協力して当たることを確約。国王はアンリに対して「カトリックへの改宗」を勧めるが、それは一旦保留。

一方「カトリック同盟」は、「国王がユグノーの頭領と手を取り合うとは何事か!」とますます激怒。徹底抗戦の構え。一方国王とユグノーの合同軍は1589年7月末にパリ包囲。8月にはパリ総攻撃の構え。日本史なら幕末、官軍による江戸総攻撃手前の一触即発、緊迫した事態。

そんな緊迫した事態の中、一人の修道士がアンリ3世のもとへ。国王にぜひとも申し上げたい議があるとの理由で、国王との謁見を実現させた修道士。「とてもとても内密な内容で」と側近すらも遠ざけさせた修道士。その書簡を渡し、アンリ3世がその書簡に見入り自分から目を離したその隙に…、下腹部をブスリ!国王の悲鳴を聞いて側近たちが駆け付け、修道士はその場で取り押えられ、そのまま処刑。一方瀕死の国王はすぐさま治療を受けるも、助かる見込みのない致命傷。ギーズ公アンリ同様、なぜ怪しげな人物を近づけたか?こんな緊迫した事態の時に。ただただ「甘いでしょ」としか言いようがない。

さて、国王の危急を聞いて駆け付けたアンリに国王は「君に後継者になってもらいたい。だが改宗しなければ難しい。どうかこの国のためにも改宗してほしい」という言葉を残して死去。37歳。これで「三人のアンリ」のうち、二人目も歴史の舞台から退場。再三再四述べているように、跡継ぎはなし。ということは…。

続きは次回に。また1週間後の配信です。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

煮ても焼いても食えない食えない「女・家康」

「ヴァージン(?)クイーン」エリザベス1世の生涯

ひたすら逃げまくって最後に勝った!
史上最強の強運の持ち主!

「大愚図皇帝」フリードリヒ3世の生涯

Amazonで発売中!

2冊合わせてご覧になりたい方は⇒こちらから